Zero-Alpha/永澤 護のブログ

Zero-Alpha/永澤 護のブログ

3

次に、テーマ文2に対する応答記述において着目すべきことは、「それができるとなると」という記述に凝縮されている。この記述も、先に述べた「社会的強制力が無意識のレベルで偏在的なものとなった世界」を暗黙の内に指示しているといえる。一見して明らかなように、テーマ文1に対する応答記述の「そうすると」と、ここでの「それができるとなると」という書き出しのスタイルは酷似しており、このスタイルそのものが本事例の特徴である。
この特徴から、この記述は遺伝子レベルへの技術的介入に対する肯定的な要素がかなり強いといえる。ここには、この技術的介入における「失敗」という事態が、その社会的効果にとどまらない致命的な事態をもたらす可能性についての危惧はない。例えば、既述の、改変された遺伝情報が世代を通じて子孫に継承されていくことがもたらす予測不可能な効果という問題である。それどころか、「自分に似たんだからしようがないという諦め方はできなくなる」という記述からは、仮に子孫や生態系の撹乱という可能性を括弧に入れたとしても、そのようにして「生産された」子ども自身が負うリスクについての眼差しは感じられない。「うまくいかない時」の「諦め」が、もっぱら自分自身のこととして語られてしまっている。これは一体なぜなのか。この問いは、予想以上に困難な問いである。
この個人=記述主体のどちらかというと否定的な自己イメージのあり方や由来に関してさらに精緻な分析が可能かもしれない。だが、これだけの記述から、これ以上の分析を行うことは困難である。
また、テーマ文1に対する先の記述と同様に、先の事例において見られたような、何らかの批判的理念に基づいた一貫性の希薄さも本事例の特徴である。遺伝子への技術的介入あるいは生命の選別操作に対して肯定的・否定的な主張のいずれと仮定しても、それら記述の――テーマ文2に対する応答記述に関してもテーマ文1及び2に対する応答記述の全体に関しても――文脈生成の一貫性を読み取ることは困難である。
だが、ここで重要なことは、読み取りあるいは分析可能な文脈生成の一貫性が稀薄であるという事態と、<我々自身の無意識>が個人=記述主体にとって意識化(記述可能な形での対象化)され得ない状態にとどまるという事態とが、不可分な関係にあるということである。言い換えれば、「それができるとなると」以下の記述から一貫した意味内容あるいは批判的理念を読み取ることが困難であるということは何ら重要ではない。むしろ、一貫した意味内容あるいは批判的理念の読み取りの困難さこそが、根底に存在する<我々自身の無意識>の存在と整合的なのである。すなわち、この個人=記述主体によるこれまでの記述のベースに、先に見た「すべては超微細なレベルで決定されている」といった<言表>の際限の無い反復で表現される世界が暗黙の内にイメージされていると考えられる。意識化(記述可能な形での対象化)のレベルから見てあくまで潜在的なもの(記憶痕跡のレベル)にとどまるこの事態にこそ、個人=記述主体にとっての根源的な一貫性がある。
ここで、次のような仮説が可能である。おそらく、個々の記述主体が上記の<我々自身の無意識>を意識化(記述可能な形での対象化)しそれに直面するという事態の生成は、現在のところ仮想されているに過ぎない何らかの文脈生成上のメカニズムによって、あらかじめ<排除>されている。このことは、先に見たように、本事例の記述主体の<自己イメージ>の由来についての精緻な分析が困難であったこととも関わる。言い換えれば、この個人=記述主体の<自己イメージ>の由来の分析を可能にする記述の生成は、上記の何らかのメカニズムによって<排除>されていると考えられる。
次に、テーマ文3に対する応答記述「現実的な話でも重い人生を自分や人に負わせることはできないが---。本当はどんな子が生まれても家族や社会で守ることができるのがよいと思う」だが、まず、「現実的な話でも」は、テーマ文3冒頭の「もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある」という記述を何らかの形で受けていると考えられる。
テーマ文1,2に対する記述において、私たちは暗黙のレベルにとどまる<我々自身の無意識>の偏在性という仮説を提起した。そこで想定された<我々自身の無意識>が偏在する世界イメージは、無時間的なものであった。だが、「もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある」というテーマ文3冒頭の記述が、この無時間性に何らかの――「もうすでに始まりつつある」という記述において表出されている――時間性を導入することになる。無意識という事態は無時間性のもとに滞留することであり、従って、この無時間性から時間性への移行が、<我々自身の無意識>の意識化(記述可能な形での対象化)過程を起動させる端緒を形成すると考えられる。
ここで導入された時間性は、<我々自身の無意識>に何らかの亀裂を穿ち得るだろうか。
ここで、次のような仮説が可能である。「現実的な話でも重い人生を自分や人に負わせることはできないが---」という記述において、いったん導入された――のかどうかは究極的には決定不可能であるが――時間性が、「現実的な話」というレベルへと再び回収されているのではないかという仮説である。すなわち、「重い人生を自分や人に負わせることはできない」と記述される事態の想定は、生命の選別操作(「不要」になった受精卵の廃棄等)を自分の場合にも人の場合にも(従ってほとんど全ての場合において)避けがたいものにするという想定につながり得る。
もしそうであるなら、この「避けがたい」という「現実的な話」のレベルにおいて、時間性の導入が無化されているといえる。また、その場合、この個人=記述主体において、生命の選別操作が避けがたい(「重い人生を自分や人に負わせることはできない」)事態として意識化(記述可能な形での対象化)されることになる。
「できないが---。本当はどんな子が生まれても家族や社会で守ることができるのがよいと思う」という記述は、こうした意識化過程の結果として位置づけることが可能だが、この記述を、先に述べた<理念>というレベルにおいてより一貫した文脈が生成する萌芽状態として捉えることもできるだろう。
だが、いったん導入されたかに見えた時間性が、<排除>のメカニズムを超えて――<排除>のメカニズム自体をいわば迂回したり飛び越えるような、「超えて(超える)」という事態がそもそも可能だとは考えられないが――<我々自身の無意識>に何らかの裂け目あるいは亀裂を穿ち得たのか。この問いに対する決定的な応答はいまだ存在してはいない。
以下、第六の想定事例の分析に移る。
テーマ文1に対する記述は、先にも触れた「改変された遺伝情報が世代を通じて子孫に継承されていくことがもたらす、ヒトを含む生態系に対する予測不可能な効果」という問題を意識化(記述可能な形での対象化)し得ている。すなわち、主要な論点は「予測不可能な効果」であり、既に別の分析テーマにおいて、「遺伝子改変という操作に関して、想定される任意の事態(帰結)の予測可能性を保証する基準あるいは根拠は存在し得ない」という形で論じている。また、この論点に関しては、「どのような個人も、種を改変する選択の時点から際限なく続く時間の中でのヒトという種の変容に対する責任=応答可能性を負うことはできない」という形でも論じた。
この問題に関しては――半永久的な時間の流れを超えて最終的に同定可能な形での――どのような「帰結=効果」も厳密には予測不可能であるがゆえに、記述における「自然の摂理やバランスを崩す」ことの具体的な内実について考えることは原理的にできない。またここでは、そういった事象内容を度外視した上での「バランスを崩す」ことの形式的基準についても記述されていない。むしろこの記述においては、「自然の摂理やバランスを崩すという可能性も考えられるからである」という慎重な表現が取られていることが注目される。すなわち、この個人=記述主体は、この問題に関してはどのような(同定可能な)「帰結=効果」も厳密には予測不可能であること、従って、記述における「自然の摂理やバランスを崩す」ことの内実や形式的基準についても原理的に思考不可能であることへの意識化された(記述可能な形で対象化された)認識を持っているとも考えられる。言い換えれば、この記述においては、先の事例においてテーマ文2に対する応答記述までは無意識にとどまっていたレベルが意識化(記述可能な形での対象化)されているもいえる。
さらに、テーマ文2に対する応答記述についてだが、第一文の「健康であることは~疑問である」という冒頭の記述は、次のように分析され得る。まず、ここでは、生存それ自体が「健康であること」が「幸せになる条件(の一つ)」として肯定され、それとの対立関係において、「背が高いなどということ」といった個々の属性を「幸せになる条件(の一つ)」とすることが批判の対象となっているわけではない。すなわち、ここには、「健康であること」と「背が高いなどということ」との――あるいは生存それ自体と個々の属性との――二項対立関係は無い。
言い換えれば、「背が高いなどということ」といった個別的な属性の序列化を肯定する遺伝子の改変が否定され、それとの対立関係において生存それ自体が「健康であること」を希求し欲望する遺伝子の改変が肯定されているわけでなない。むしろ、この個人は、生存それ自体が「健康であること」への希求や欲望は遺伝子レベルの改変を正当化しないというテーマに気づいていると考えられる。既述のように、生存それ自体が「健康であること」を希求し欲望する遺伝子の改変は、個別的な属性の序列化が生存そのものの序列化と本質を同じくすることから肯定される。
すなわち、他の任意の個人との間で任意の属性が序列化された個人の生存は、他の任意の個人の生存との間で序列化された個人の生存として意識化(記述可能な形での対象化)される。
言い換えれば、既述のように、生存それ自体が「健康であること」を目指す遺伝子の改変は、生存それ自体の序列化の肯定である。先の記述を行った個人=記述主体は、まだこうした認識にまで到達し得ていないのかもしれない。だが、少なくても先の記述においては、個々の属性が焦点であろうと、生存それ自体が健康であることが焦点であろうと――「生まれてくる子にとって幸せになる条件の一つであるかどうか、疑問である」という記述において表現されているように――一貫した文脈生成過程において懐疑されていることは確かである。
次に、第二文「カップルの希望に応じた~反していると思う」だが、ここで想起されるのは、先に分析した事例におけるテーマ文2に対する応答記述である。そこでは、「子どもは、親またはカップルの希望に応じて存在するものではない」という主張が見られた。また、私たちは、この主張を、「子どもは、親またはカップルの希望に応じてこの世界へと存在させられるものではない」、あるいは、「子どもは、親またはカップルの希望に応じた生存の様式を持つように予定されてこの世界へと存在させられてはならない」と言い換えて文脈を抽出した。
ここでも、「子どもの所有物化」という鍵概念の生成過程としての、同様の一貫した文脈の生成過程が見られるといえる。
次に、テーマ文3に対する応答記述だが、ここで、「医学は病気を治療することによって進歩してきたし」という記述と後続する「障害があることを~考えてはいけないと思う」という記述との文脈関係――あるいはこれら両者の記述を結び付ける文脈の生成過程――をどのように考えればよいのか。テーマ文3は、「治療方法のない難病などの場合、それが個人やカップルの選択によるのなら、受精卵を廃棄したりして出産をあきらめてもやむを得ない」という記述で終わっていた。一つの仮説として、ここでは、医学が本来「治療することによって進歩してきた」にもかかわらず、遺伝子検査・診断に従い受精卵を選別・廃棄するという行為は、本来為されるべき「治療」あるいはその結果としての「(医学の)進歩」の安易な放棄――すなわち、本来医学(の進歩)によって救われるべき(はずであった)命を安易に遺棄すること――であるという認識が記述されているとしよう。
だとすると、ここでは「遺伝子検査・診断に従う受精卵の選別・廃棄という(負の価値付けを持つ)行為」と、場合によっては遺伝子改変操作をも含む「遺伝子治療」という(正の価値付けを持つ)行為とが二項対立的に捉えられていることになる。また、もしこういった二項対立的な文脈が生成しているとするなら、ここでは遺伝子治療すら可能ではない(「治療方法のない」)ために受精卵の選別・廃棄が選択されたという事態がそもそも理解されてはいなかった、または忘却されていたということになる。
だが、ここで「理解されていたのかどうか、または忘却されていたのかどうか」という二者択一をする意味はない。むしろ、ここでより根底的な選択あるいは問いとして浮上するのは、「たとえ遺伝子治療すら可能ではない(「治療方法のない」)ことがあらかじめ十分予測されていたとしても、受精卵の選別・廃棄を選ぶのか、それともそれを拒否するのか」である。
この根底的な論点に関して、「遺伝子操作を全部否定するわけではない」という記述に見られるように、この個人=記述主体は、それが受精卵の選別・廃棄という意思決定=選択行為であったとしても、そういった他者の選択を尊重していると考えられる。
だが、他方、「が安易に考えてはいけないと思う」という直後の記述から、この個人=記述主体によっては「受精卵の選別・廃棄を拒否する」という後者が選択されている(あるいは選択されるであろう)と分析され得る。
「障害があることを全てマイナスに捉えてはいけないと思う。思いやりも障害によって養われることもある」という記述には、先に分析した事例の「世の中には障害を持っていても自分の生きる道を見つけて生き生きと暮らしている人もいる」と類似した論理が見られる。ここまでの分析の結果、先に分析した事例以上に、本事例においては、「遺伝子検査・診断に従う受精卵の選別・廃棄という(負の価値付けを持つ)行為」と、場合によっては遺伝子改変操作をも含む「遺伝子治療」という(正の価値付けを持つ)行為との二項対立を乗り越える一貫した文脈の生成が見られる。従って、先の仮説は、本事例に関しては成立しないと考えられる。
以下、第七の想定事例の分析に移る。
テーマ文1に対する応答記述は、一見して不思議なほどに遺伝子の改変に対して肯定的である。さらにこの記述は、単に遺伝子の改変への肯定的構えではなく、人間の生活世界全般の技術的改変に対する肯定的構えを表現しているとも言える。というよりむしろ、この記述においては、「技術的改変(介入)」という媒介となるレベルに対する限定的な眼差しが欠如している。この個人=記述主体にとっては、「犠牲もなく、病気もなくなるといった世界」という未規定な結果がどのような媒介を通じてもたらされるのかという問題は存在していない。それほどまでに、ここには何らかの制約条件に対する眼差しが欠如している。だが、この眼差しの欠如という事態は、一体どういうことなのか。
ここでも私たちは、この個人=記述主体の無意識を構成するものとしての、「社会的強制力が無意識のレベルで偏在的なものとなった世界」のイメージ――あるいは「すべては超微細なレベルで決定されている」という<言表>の際限の無い反復で表現される世界イメージ――の生成過程を想定できる。この世界イメージの生成過程は、個人=記述主体にとってのその都度の意識化(記述可能な形での対象化)のレベルから見て、あくまで潜在的なもの(想定された記憶痕跡のレベル)にとどまる。このあくまで潜在的なものにとどまる世界イメージの生成過程においてこそ、個人=記述主体にとっての根源的な一貫性がある。
この世界イメージの生成過程は、個人=記述主体の記述が位置するその都度の文脈の生成過程に関して、現在までのところ最も根底的な文脈生成過程として――言い換えれば、その都度の文脈生成過程に対するマトリクス=母胎的な文脈生成過程として――仮定されている。
ところで、先の「この眼差しの欠如という事態は、一体どういうことなのか」という問いに関連するが、上記の「すべては超微細なレベルで決定されている」という<言表>が浸透する潜在的な記憶痕跡のレベルの指示関連領域は、遺伝子の改変という技術領域に――あるいは一般に、遺伝子レベルに介入するあらゆる先端技術の領域に――限定される必然性はない。言い換えれば、「すべては超微細なレベルで決定されている」という<言表>が記憶痕跡=効果として生成してくる過程が、遺伝子の改変あるいは遺伝子レベルに介入する先端技術の領域という媒介あるいは制約条件を固有に指示しているわけではない。
このような媒介あるいは制約条件を欠いているという意味で、テーマ文1に対する応答記述は、こうした<言表>の効果として、むしろ典型的な事例である。荒唐無稽にも見えるが、先の記述が暗黙の内に肯定しているのは、人類史の過去・現在・未来の全体が経験するあらゆる技術的介入の「世界改変効果」に及ぶと思われる。ここでは、そのような未規定な結果を肯定してしまう世界イメージの生成過程が焦点となる。とはいえ、今後私たちの生活世界において偏在的なものとなる超微細な生体工学の領域こそが、こういった<言表>にとってとりわけ親和的な媒介あるいは制約条件=指示関連領域であろう。そういった超微細な生体工学の領域は、既述の<我々自身の無意識>が、それ自身の制約条件=指示関連領域としながら絶え間なく作動する領域なのである。すなわち、<我々自身の無意識>の作動が、この個人=記述主体の記述自身の生成過程において想定できる。
さて、「どんなこと(anything)でも」という冒頭の言葉には、「何でも構わない(anything goes)」といった構えすら見て取れる。ここでは、「どんな(any)」リスクが発生したとしても、それらは全て「過渡期」の現象であると見なされ得る。すなわち、そういった「過渡期を越えれば」、ほとんど全ての問題は解消すると想定されているように見える。
だが、もちろん、ここでは問題が解消すると断言されているわけではない。あくまでも、そういったリスクや問題が全て解消された「世界がくるのなら、それもあり得る」という仮想世界が述べられているに過ぎない。この仮想世界は、あらゆる問題が「過渡期」を越えて解消へと向かう直線的な時間観念を内包しているように見える。だが、より根底的なレベルには、あらゆる「過渡期」とその「超克」の生成と消滅が恒常的に反復される世界イメージがある。それはむしろ、あらゆる有限な時間性がその都度記述主体にとっての無意識=潜在的なレベルで消去されるような、無時間的な世界イメージであろう。私たちは、ここでも、あらゆる時間の関節が外れたかのような、「なんだかつまらない」世界(「といった世界」)の可能性(「それもあり得る」)を見出すことができる。
ところで、先の記述で述べられていたのは、もし「犠牲もなく、病気もなくなるといった世界がくるのなら」、そのような世界を到来させる技術的介入が「許容される(あり得る)」ということ、つまり「そうした世界もアリ」ということである。言い換えれば、「自分の子どもが生まれてくる前に、その子どもの遺伝子を変える」ことは、少なくてもこの段階では何の懐疑にも晒されてはいない。
だが、もしそうなら、以上の記述とテーマ文2に対する応答記述との文脈関係が新たな問題を提起することになる。ここで、テーマ文1と2に対するこの応答記述の違いを、一体どのように考えればよいのか。あるいは、これら両者の記述の間には「本質的な差異」は存在しないのか。どちらのテーマ文も、「自分の子どもが生まれてくる前に、その子どもの遺伝子を変えることができるようになる」という論点に関して違いはない。先に見たように、テーマ文1に対する応答記述においては、この論点に関して、何らかの媒介あるいは制約条件を欠いた肯定という文脈が生成していた。にもかかわらず、テーマ文2に対する応答記述においては、前触れ無く「かなり極論だと思う」とされている。これら二つの応答記述の間には、実は見かけほどの違いはないのか。これらの記述を包括する文脈の一貫性を想定することは果たして可能なのか。
ここで、既述の「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変は、個別的な属性の序列化が生存そのものの序列化と本質を同じくすることから肯定される。すなわち、生存それ自体が健康であることを目指す遺伝子の改変は、生存それ自体の序列化の肯定である」という論点が想起される。  
これは仮説だが、一般に、テーマ文に応答する個人にとって、テーマ文1は「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」に対応し、テーマ文2は、「個別的な属性の序列化(同時に生存そのものの序列化)」に対応するものとして受け取られると考えられる。言うまでもないが、先の個人=記述主体による記述は、「生存それ自体が健康であることを目指す遺伝子の改変は、生存それ自体の序列化の肯定である」という認識へと向かうものではなかった。それでは、これらの記述を包括する文脈の生成過程とは、一体どのようなものなのか。
先の個人のテーマ文2に対する応答記述は、「かなり極論だと思う」で始まっていた。この記述と、テーマ文1に対する「それもあり得る」という記述との整合性が問題とされた。すなわち、「生まれてくる前の子どもの遺伝子を変えてしまう」という点においては本質的に同一の事態に応答する二つの記述の整合性への問いである。ここで先の仮説を活用するなら、テーマ文に応答する個人にとって、テーマ文1は「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」に対応し、テーマ文2は「個別的な属性の序列化」――同時に生存それ自体の序列化であるがこの個人=記述主体にとってはその認識はない――に対応するものとして受け取られるために、二つの記述が一見不整合なものとして分岐するということになる。言い換えれば、この個人=記述主体が記述しているのは、背を高くしたりするための介入(テーマ文2に対して)は「かなり極端だと思う」が、生存それ自体の健康を願う故の介入(テーマ文1に対して)なら「それもあり得る」ということである。この二つの記述の分岐は、応答する個人=記述主体の主観的な意識化(記述可能なものとしての対象化)過程の分岐に対応している。逆に言えば、この個人=記述主体にとっての無意識の文脈生成過程を反映するものではない。もちろんこの事例に限らないが、包括的な文脈生成過程は、より根底的なレベルで掘り起こされなければならない。
まず、上記の一般的仮説は、次のように修正される。すなわち、括弧内の表現である「同時に生存それ自体の序列化」は、上記の補足的コメントに従って、削除されなければならない。既述のように、先の個人=記述主体にとって、「生存それ自体が健康であることを目指す遺伝子の改変は、生存それ自体の序列化の肯定である」という認識は存在していない。すなわち、この「同時に生存そのものの序列化」という括弧内の記述は、応答記述を遂行する個人=記述主体の意識化過程の外部にある。従って、この個人にとって、「個別的な属性の序列化」という価値観に基づいた「属性に関わる遺伝子改変」に対する懐疑はあっても、それが「同時に生存そのものの序列化を意味する」という認識はない。
このことが妥当するのは、先の個人=記述主体に限らないと考えられる。従って、記述の分岐を説明する先の一般的仮説は、次のように書き換えることができる。
1. テーマ文に応答する任意の個人=記述主体にとって、テーマ文1は、「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変」に対応するものとして肯定的に意識化(記述可能なものとしての対象化)される傾向がある。
2. テーマ文に応答する任意の個人=記述主体にとって、テーマ文2は、生存それ自体が健康であることへの希求や欲望とは異なる「個別的な属性を序列化する欲望に基づく遺伝子の改変」に対応するものとして否定的に意識化(記述可能なものとしての対象化)される傾向がある。
3. 以上二つの応答する個人=記述主体の主観的な意識化(記述可能なものとしての対象化)過程の分岐がこの個人=記述主体において存在する場合、それぞれのテーマ文に対する二つの応答記述が、それぞれ肯定的・否定的という形で一見不整合なものとして分岐する傾向がある。
この個人=記述主体による「かなり極論だと思う」という記述に遭遇した段階においては、テーマ文1に対する記述とテーマ文2に対する記述の両者を包括する文脈の一貫性を想定することは困難であった。だが、上記の仮説によって、主観的な意識化(記述可能なものとしての対象化)過程を超えた根底的なレベルにおいて――言い換えれば、その都度の文脈生成過程に対するマトリクス=母胎的な文脈生成過程として――一貫した文脈の生成過程を想定することができる。その場合、「かなり極論だと思う」に引き続く記述は、新たな光を当てられるのではないか。
まず、「カップルが工作するのでは決してないと思う」という結論部分は、先に分析した事例における「子供は「作る」ものではなく「授かる」ものだ」という論理と表層的には類似している。だが、「この記述でいったい何が言われているのか」という記述自体の意味内容が問題なのではない。むしろここで注目されるのは、この記述の「媒介あるいは制約条件を欠いた、流れるような構え=スタイル」である。それは、形式としては「~になり~になり~になる」といった構え=スタイルであり、また「それが広がって地域へ国へ世界へとつながる」といった記述に見られる<おのずから成る事象の流れ>とでもいえる表現である。私たちは、ここにおいても、先の分析における「あらゆる「過渡期」とその「超克」の生成と消滅が恒常的に反復される(中略)無時間的な世界イメージ」を見て取ることができる。
「カップルが工作するのでは決してないと思う」といった先の記述から、一見ここでは、「(不自然な)工作」あるいは技術的介入がないからこそ、こうした<おのずから成る事象の流れ>があり得ると述べられているように見える。だが、実はこの記述は、「人類史の過去・現在・未来の全体が経験するあらゆる技術的介入の世界改変効果の肯定」という先の分析結果と同じコインの裏表の関係にある。既述のように、無意識のレベルにおいては、テーマ文1に対する応答記述とテーマ文2に対する応答記述の間には、一貫した文脈が生成していると想定できる。あらゆる技術的介入およびその効果は、あくまでも一つのエピソードとしての「過渡期」に過ぎない。言わば、「素晴らしい新世界」という結論があらかじめ先取りされた世界であり、その先取りにおいて「何でも構わない(anything goes)」といった構えが維持されている。やはりここでも、「すべてが超微細なレベルで決定されている」。すなわち、あらゆる有限な時間性がその都度記述主体にとっての無意識=潜在的なレベルで消去されるような、無時間的な世界イメージが生成している。
先にも述べたように、この「世界」は、決して直線的な時間の末端としての「終わり=目的」ではない。それはむしろ、無時間的な無常と恒常の共存において、自分の子ども、妻、夫、夫婦、家庭(という固い絆)、地域、国、世界がおのずから一つに「つながる」世界(あるいは常にすでに一つにつながっている世界)であり、それ故、「カップルが工作するのでは決してない」世界である。それは、この個人=記述主体にとって、本来どこにでもあるはずの、ごく自然な「日常的世界」なのである。
 上記の文脈生成過程の一貫性が、一見すると意外にも、次のテーマ文3に対する応答記述においてあらわになる。とはいえ、それは記述とも言えない記述であり、ただ「…と思う」のみである。私たちは、この記述の断片、というよりむしろ「記述の空白を示す記憶痕跡としての記述」をどのように読めばよいのか。
テーマ文3は、「不要」になった受精卵の選別・廃棄といったケースが、「もっと身近な、もうすでに始まりつつある話もある」という冒頭の記述によって提示されていた。先に、私たちは、この冒頭の記述が、「無時間性に時間性を導入することになる」と仮定し、さらに「無意識とは無時間性のもとへの滞留であり、この無時間性から時間性への移行が、<我々自身の無意識>の意識化(記述可能な形での対象化)過程を起動させる端緒を形成すると述べた。他方、先の事例においては、「避けがたい」という「現実的な話」のレベルにおいて、時間性の導入が無化されていると分析された。こうした分析の方法論は、「…と思う」という「記述の空白」あるいは「記述の空白を示す記憶痕跡としての記述」には通用しないのか。
この記述は、単純に(類型化して)解釈すれば、「回答あるいは判断不能のケースであり、先の個人=記述主体の主観的な意識化(記述可能なものとしての対象化)過程にとって、テーマ文1,2,3相互の(同時にそれぞれに対する応答記述相互の)整合性あるいは矛盾の吟味ができないための思考停止状態であると推測される。すなわち、これらの整合性の吟味は、この個人=記述主体によって、無意識に否認されている可能性がある。無意識的な葛藤タイプとして捉えることができる」となるだろう。確かに、ここには、自分の子ども、妻、夫、夫婦、家庭(という固い絆)、地域、国、世界が自ずから一つに「つながる」世界(常にすでに一つにつながっている世界)の不可能性という<現実>に直面することへの無意識的な否認が存在するのかもしれない。
それは、あの<排除>のメカニズムである。我々にとって本来どこにでもあるはずの、ごく自然な「日常的世界」は、<我々自身の無意識>を穿つ亀裂がこのメカニズムによって<予防>されることで成立するのである。
以下、第八の想定事例の分析に移る。
テーマ文1に対する応答記述のキーワードとして、「その子の尊厳自体」と「別の世界観」を挙げることができる。この記述は、これまでの事例における「子どもは、親の欲望に応じて存在するとは思えない。一個の別人格を持つ人間である」、「障害があることを全てマイナスに捉えてはいけないと思う。思いやりも障害によって養われることもある」、「世の中には障害を持っていても自分の生きる道を見つけて生き生きと暮らしている人もいる」といった記述と類似している。また、少なくても一見したところ、遺伝子レベルへの技術的介入に対して懐疑的である。しかし、先の記述には、これまでの記述では明確に表現されていなかった別のテーマが見られる。
「別の世界観」という言葉は、「一個の別人格」という言葉と共鳴している。だが、それだけではなく、「別の世界観を親と子に与えてくれるかもしれない」という表現においては、親と子が共有し得る「別の世界観」が、ある「世界観=X」と対比されている。この「別の世界観」は、子どもという他者の「尊厳自体」が、そして子どもとともに「生きることのすばらしさ」が、「親と子に与えてくれるかもしれない」ものである。言い換えれば、ここでテーマ化されているのは、子どもという他者の他者性それ自体ではなく、むしろ以下のことである。
(1)子どもという他者の他者性がもたらす「別の世界観」を親が子どもと共有する可能性
(2)「別の世界観」の持つ世界性が「世界観=X」に対して持つ他者性
 この「世界観=X」は、「遺伝子疾患という属性を持った人は、本来はその出生(生存)自体が予防され得た」という言表が表現する世界像である。そこには、既述の「別の世界観」が存在する余地がない。言い換えれば、「成長とともに難病などになってしまうと分かっている」にもかかわらず技術的介入が為されなかった(為されずに出生した)子どもという他者が存在する余地がない。だからこそ、「別の世界観」は、「世界観=X」が表現する世界に対する<可能的世界>としての「別の世界」を表現している。言い換えれば、「世界観=X」とは、「遺伝子改造による難病等の属性が除去された状態」と「除去されていない状態」という二分法がつねにすでに前提され、こうした属性及びこうした属性を持つ生存の除去あるいは予防という思想と実践が偏在する世界のイメージである。
「別の世界観」は、この「世界観=X」と対比されている。そして、子どもという他者の「尊厳自体」は、「世界観=X」による生存の序列化に抵抗し、そこへと回収され得ない何かを表現するものとしてイメージされている。
 次に、テーマ文2に対する記述だが、まず、「真の尊厳とは、どの様な局面に対しても自らが受け止め、生きることのすばらしさを発見するところにある」という記述には、子どもという他者の「尊厳自体」が反響している。ここでも、子どもとともに生きることのすばらしさが、親と子に与えてくれるかもしれない「別の世界観」を子どもと共有する可能性が記述されている。「どの様な局面に対しても自らが受け止め、生きることのすばらしさを発見する」とは、子どもという他者の到来を自らが受け止めることによって、子どもという他者の他者性がもたらす別の世界観を親が子どもと共有することである。
また、「人が生きることはSFのような話の中でも唯一、技術的・科学的な部分が及ばないところにある」の「人が生きること」は、「人が生きることの尊厳」と言い換えることができる。ここにも、子どもという他者の「尊厳自体」が反響している。というよりむしろ、自らにとっての子どもという他者の「尊厳自体」を想定することが、「人が生きることの尊厳」あるいは「真の尊厳」を発見させる。
さらに、「技術的・科学的な部分が及ばない」は、ここでの文脈においては、「世界観=Xによる生存の序列化へと回収され得ない」と言い換えることができる。すなわち、「人が生きること」は、あるいは生存それ自体は、ハイテクノロジーによる生命の選別操作という思想と実践が偏在する世界にあっても、本来的に序列化され得ないものとされている。先の記述の冒頭で、「確かに人間の尊厳とは健康であったり、背が高かったりすることにより自信が持てることから発生する部分もあるとは思える」に続く「が、しかし」という表現が示していることは、この個人が、「生存それ自体が健康であることを希求し欲望する遺伝子の改変は、個別的な属性の序列化が生存そのものの序列化と本質を同じくすることから肯定される。生存それ自体が健康であることを目指す遺伝子の改変は、生存それ自体の序列化の肯定である」という認識を持っているということであろう。子どもという他者の他者性がもたらす「別の世界観」は、この認識を通過する文脈生成過程で記述されたといえるだろう。
次に、テーマ文3に対する応答記述の空白であるが、私たちはこれをどう考えればよいのか。テーマ文3は、「もっと身近な、もうすでに始まりつつある話として、遺伝子検査や診断によって、これから生まれてくる自分の子どもに深刻な問題が見つかった場合産みたいと思った子どもだけを産むことができるようになる。治療方法のない難病などの場合、個人やカップルの選択により受精卵の廃棄・選別もやむを得ない」というものであった。ここで、直前の事例におけるテーマ文3に対する「…と思う」という「記述の空白」あるいは「記述の空白を示す記憶痕跡としての記述」が想起される。だが、これまでの分析から判断するなら、直前の事例と本事例との間には、文脈生成過程における一貫した差異があるのではないか。言い換えれば、本事例に対しては、「無意識の否認」という分析は妥当しない。ここでは、無意識の否認を支える<排除>のメカニズムが少なくても直前の事例においてのようには機能していない。
 それでは、この記述の空白は、これまで見た文脈生成過程のうちにどのような位置を占めるのか。
この記述の空白においては、たとえそれが「世界観=X」と重なるとしても、「個人やカップル」という自分とは異なる他者の他者性が、そして同時にその他者が抱く「別の世界観」がこの私に対して持つ――この私には共有し得ないものとしての――他者性に対する顧慮が存在すると考えられる。
ここでは、この個人による「個人やカップル」という他者の他者性への顧慮が、その前では沈黙せざるを得ない記述の壁となっている。記述の壁とは、言語化(意識化)の中断を意味する。従って、この記述の壁は、いったんは意識化されかけた予防的排除のメカニズムの機能を再び回復させることになる。
だとすれば、この他者の他者性への顧慮という契機においてこそ、「個人、カップルの自由な選択」による遺伝性疾患の診断、治療、予防という「新優生主義」理念の実践が、その戦略的な有効性を示している。そのメッセージは、個人、カップルの「自由な選択」が、「生存を序列化する選択肢は常にすでに決定されている」という枠組みの中でのみ有効になるということである。

[*以下は社会哲学的アプローチによる附論である]
これまでの分析から、<我々自身の無意識>の社会哲学的含意を以下のように定式化することが可能になる。それは、「自由な選択はあるが、生存を序列化する選択肢は常にすでに決定されており、我々はその中で有効な選択をしなければならない」である。
<我々自身の無意識>とは、「この私の(または誰かの)生存が、他の誰かの生存よりも一層生きるに値する」という言説として明示化され得る無意識的信念である。この信念は、「QOL(生存の質:Quality of life)」という概念を一元的な価値尺度として先取りしており、「個々人の生存価値=QOLは階層序列化可能である」という信念に置き換えられる。
現在、この信念は、「テクノロジーによるQOL向上は正当化できる」という信念に置き換えられている。本分析論のターゲットは、遺伝子の選別・改変によるQOL向上という想定されたケースであった。従って、<我々自身の無意識>は、「遺伝子の選別・改変によるQOL向上は正当化できる」という言説として明示化され得る無意識的信念となる。
個人が言語活動の主体として構築されていく過程で、発話行為や書く行為として実践・反復される一群の言説が生産される。<我々自身の無意識>は、この言説実践を媒介している。我々の経験と行為は、この言説実践の過程を通じて、我々自身の選択として生成するのである。



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